野口家の窮状と清作の誕生
冬はたびたび猛吹雪に襲われる厳しい風土の30戸足らずの集落に野口家はあった。祖父は老衰し、母親も体が弱って働けず、その困窮からくる争いから父親が奉公に出て行ってしまう。12歳のシカ(のちに英世の母となる)は大人に混じって奉公に入り、子守、農作業、夜なべのわら仕事と休みなく働いた。 働きずくめで娘時代を過ごし、すでに20歳を迎えていたシカは、近くの部落から婿養子をもらう。22歳の佐代助という若者であった。貧乏を承知で野口家に来てもらえるならばと受け入れたが、酒好きで野良仕事をコツコツとこなすタイプではなく、あまりシカの手助けにはならなかったようだ。
1876年11月9日、野口家に待望の男の子が生まれた。祖先から「清」の字を、よく田畑を耕作するようにと「作」の字を添え、「清作」(のちに英世と改名)と名付けられた。久しぶりに誕生したこの男の子に、野口家の再興を期待するシカの思いは強くなっていった。
起こった悲劇
シカは野良仕事から帰ると、夜なべしてわら細工をしたり、着物を縫ったりしながら、遠くの町まで行商をして日銭を稼いだ。休む暇もないシカにとって、清作に乳をのませるときだけが唯一やすらぎを感じる時間だったのではないだろうか。
そんなささやかなシカの幸せさえ、運命は残酷にも奪おうとした。清作がまだ1歳半のころ、家の前の畑にいたシカの耳に、突然悲鳴のような清作の泣き声が聞こえた。気が狂ったように家の中に駆け込んだシカの目に、信じられない光景が飛び込んできた。清作がいろりの火の中に体ごとうつぶせに倒れこんでいたのである。あわてて抱き上げたが、左手が無残に焼けただれ、その苦痛と恐怖でぶるぶると震えていた。近くに医者はいないし、いても払えるお金が無かった。シカは一心不乱にお経を唱え、21日間にわたり観音様に願かけをしながら寝ずの看病を続けた。幸い命は助かったものの、清作の左手は、親指が手首のところにねばりつき、中指は手のひらにねばりついて離れない。松の木のこぶのような醜い姿となってしまった。
このとき、シカは清作の将来について悲観せざるを得なかった。「こんな手では百姓はできない。この子を一生養ってゆかねば」。
ドクター野口の原点となった少年時代
小学校に入学した清作は、手のことでからかわれるために学校から足が遠のいていくようになった。ある時、そのことを知ったシカは涙を流しながら清作に言った「お母のせいでおまえをこんなつらい目にあわせてすまない。だけど、おまえはみんなに負けないように学問に励んで身をたてるしかねえんだぞ」。清作は日頃の母の苦労をしっているだけに、この言葉に深く反省し、翌日から学校に行くようになった。級友にいじめられても逃げることなくにらみ返し、その迫力に周囲は気おされるほどだった。
やがて小学校の卒業試験を受ける時期となり、猪苗代高等小学校の小林栄が清作の試験に立ち会った。清作の非凡な優秀さを一目で感じ取った小林は、左手のケガや生い立ち、進路についての悩みを聞いて言った。「これからは学問第一で、貧しいからとて卑屈になることはない。それに私も微力だが何とか力になってあげよう」。その当時の高等小学校は、貧農の子などが行くことなど考えもつかない高嶺の花であった。何の報いも求めない若き教師の大きな使命感と、我が子の将来を思う母親の秀でた決断力が結合し、清作の人生の中で最も重要な決定がここで行われることとなった。
手術で目覚めた医学への道
高等小学校に進んだ清作は、死に物狂いで学問に打ち込んだ。睡眠時間は極端に短く、風呂焚きなどの仕事をしながらも本から目を離すことはなかった。卒業を控えた作文で、他の級友たちは将来の進路などについて語っていたが、清作は自分の将来に展望を持つことが出来ず、どうにもならない現実に対する心の苦しみを切々と訴え掛けた。この作文に心を動かされた小林先生が、校長をはじめとする教職員や生徒達に訴えかけると、清作の手術のためにみんなが協力して少しずつお金を出し合い、合計で10円(現代の数十万円)ほど集まった。
猪苗代町から峠を越えた会津若松に、外科手術の名手と言われたアメリカ帰りのドクター渡部鼎(わたなべかなえ)の会陽医院があった。渡部による手術は見事に成功し、左手で物をつまんで持ち上げられるほどまで回復した。
医学のすばらしさに感動した清作は、医者を目指すことに決めた。手術をしてもらった渡部先生に頼み込み、書生として会陽医院に置いてもらえるようになった。4年ほど経ったある日、東京で高山歯科医学院の幹事をしている血脇守之助(ちわきもりのすけ)が、会陽医院を訪れた。そこで、フランス語で書かれた病理学の原書を熱心に読んでいる清作と出会う。清作から医師への夢を聞かされて感嘆した血脇は、「東京に出たら高山歯科医学院に俺をたずねてこい。勉強するために、できるだけのことをしてあげよう」と約束した。
清作は、上京して医者を本格的に目指すことを決意した。この時に、清作が家の茶の間の柱に小刀で彫った言葉が今でも残されている。
−志を得ざれば再び此地を踏まず−
「英世」に改名して世界へ飛び立つ
血脇の献身的な支援のおかげで医師開業試験に見事合格した清作であったが、生来のとどまることを知らない向上心のため、さらに自分の夢を一途に追い求めようとしてもがき苦しんでいた。我を忘れて酒や遊びに興じることもたびたびあったという。
この頃、猪苗代の恩師・小林先生の夫人が重病と聞き、清作は休暇をもらって帰郷している。献身的な看病によって峠を越し、知人から借りた坪内逍遥の「当世書生気質」を読んでいくうちに清作は愕然となった。その小説の主人公として描かれていた「野々口精作」という男が、まるで自分をモデルにして書いているのではと思うほど似ていたからである。田舎出の医学生で、秀才として将来を期待されていたにもかかわらず、遊びに興じすぎて堕落して自殺してしまう、というストーリーである。清作は自分の将来を暗示されたような思いになり、小林先生に改名の相談をした。「世界中で良い仕事をする医者の英雄になって欲しい」という願いを込めてここに「野口英世」が誕生した。後に確認されたことだが、このモデルは清作とはまったく関係が無かったという。
その後待望の渡米を果たした英世は、ペンシルバニア大学のシモン・フレスキナー教授に師事し、数多くの功績を残した。そして世界中を飛び回って細菌と格闘し、伝染病が蔓延している現地へ飛び込んで研究にあたった。この英世の献身的な姿勢と研究の成果に対し、世界中から栄誉ある表彰が贈られている。また、英世の名前が付けられた学校や研究所が世界中に数多く存在する。当時の光学顕微鏡の性能の限界から、あともう一歩というところで挫折せざるを得なかった研究もたくさんあった。あと数年早く電子顕微鏡がこの世に生まれていたならば、と悔やまれるところである。
1928年、アフリカのガーナで大流行した黄熱病撲滅のための研究中に、自ら感染して帰らぬ人となった。アメリカ合衆国ウッド・ローンにある英世の墓碑の表面には次のように書かれている「その努力を科学に捧げ尽くし 人類のために生きた彼は 人類のために死す」
母シカの手紙
英世が米国のロックフェラー研究所の副正員として毎日研究に没頭していた頃、故郷の母シカから突然一通の手紙が届いた。子供の頃貧しくて字を習うこともできなかったシカが、英世に帰国を切々と訴えることばに胸を打たれる。実はこのとき野口家は最悪の状態で、一家離散寸前の状態だったという。
地元の猪苗代町では、この感動的な手紙にちなんで「母から子への手紙」コンテストが毎年開催され、全国の母親からたくさんの手紙が応募されている。
おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけ(驚ろき)ました。わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。よこもり(夜篭り)を。いたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。
いぼし。ほわ(烏帽子=近所の地名 には)こまりおりますか。
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。
ドか(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにこきかせません。それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかしさむいてわおかみ。しております。
きた(北)さむいてはおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわしおたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄昌様=修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわおかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちちまちて(返事を待って)をりまする。ねてもねむれません。 |
ついに一時帰国を決意
英世はこの手紙を読んでもすぐに故郷へ帰ることはできなかった。それから3年ほど経ち、英世の高山歯科医院時代の友人石塚三郎から手紙が届いた。「もはや余生は長くない。この際万難を排して帰国しなければ、後悔しても及ぶまい」。そこにはひどくやつれた母の写真が添えられていた。英世はその写真を見て愕然とし、ついに15年ぶりに日本へ帰ることを決意するのである。
1915年9月、いよいよ故郷へ帰る日が来た。列車が翁島駅に入ると、花火が打ち上げられ、プラットホームでは400人以上が万歳をして出迎えた。ここからすぐに生家には向かわず、母の言葉を忠実に実行する。八幡神社に参拝し、集落の30戸あまりの家を一軒ずつ訪れて野口家が世話になった御礼を述べ、最後に祖先の墓に詣でた。
シカは玄関でじっと息子を待っていた。英世はまぶしげに頭を下げ、「おっ母さん、ただいま帰りました。よう御無事で…」後は言葉が続かない。「遠いところ、ほんにお疲れだったわな。よくやってくれ、これでよかった、よかったよ」。
この3年後の11月、産婆を続けていたシカはスペイン風邪に倒れ、肺炎を併発して危篤状態となった。英世がエクアドルで黄熱病を征服し、名誉大佐の称号を与えられたことを枕元で聞き、シカは嬉しそうに言った「小せえ頃に案じたより、医者(英世を指す)はようやってなあ…」いつも中田の観音様にお願いしていた通り、野口シカは偉大な息子よりも先に66年の生涯を閉じた。
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